昭和四十九年十一月十七日 朝の御理解
御理解第67節 「何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ」
ここの所を御神意というか、分からなければならん。一番大切に頂かなければならないところは、どこだろうかと思いますね。
やはり一番最後の「長う続かぬ」と仰せられますから、長う続くという工夫だと思いますね。信心が細うても長うと、だから長う続く工夫が要るとのこと。
次は「何事も釘付けではない」これはもう確かにそうです。日に日に社会情勢という事でも変わってまいります。同じという事はありません。お互いの身の上に起きてくる事もやはり釘付けではありません。悲しいことでも苦しい事でも本当によそ事の様に思うておったが、その悲しい事やら苦しい事が、今日は我が身にという様な事がございますでしょうが、いわゆる油断はできん。
そこでです、やはり信心が長う続くという信心。悲しい事が起こっても嬉しい事が起こっても動じない、迷わない。釘付けではないのですから、何時までも貧乏しておる人が何時までも貧乏しておるとは限らない。
と言うてお金を沢山持った人が何時までも、分限者であるとは決まっていない。そういう意味を釘付けではないと言っている。だから信心も同時に釘付けであってはならない。 信心も何か嘘ではないけど、本当でもないと言った様な事を馬鹿の一つ覚えの様に、それを固守しておる人があります。信心はこうだという風に、それはそれでもね。その事が段々深められて行き、高められて行き、又は広められて行くと言う様な生き方に成って行けばいいのですけれども、それが何時も同じである。いうなら信心が釘付けになっておる。だからおかげの方も釘付けに成っておる。
いうなら、堂々巡りの信心である。そういうのが沢山あるようですね。これは信者にも教会にもね。もうここのところ一丁守っていきゃよい、ここのところ一つ、それを信条としておけばよいと言った様なですね。
例えば、合楽で言われる、成り行きを大切にするとか。全ての事に「御」の字をつけていく頂き方。これなどはもう馬鹿の一つ覚えでいいのです。もうそれに徹して行ったらいいのです。だからそれに徹して行くから、その事が次第次第により深くより広く分かって行くからです。本当にそれに徹することです。
なら「馬鹿とアホウで道を開け」と福岡の初代が頂かれた。ですから、その馬鹿とアホウになると言うことは、どう言う様な事かと言うことを、これを本当に一つ覚えでいいです。だからそれが、段々深められて行かなきゃ広められていかなければです。ただ言うておるだけではいけない。だからそこに私は思うことはです。おかげの証というものがいつもあらなければいけないということです。自分の信心がならどこにでも一つの流儀といった様なものがありますからね。合楽には合楽流といった様なものが、いわば、何時の間にか出来ておる。
良い所もありゃ悪い所もあるけれども、これなどは合楽の信心を頂く人達はここだけは守っていく。守って行くと言うことは、それを行じていくと言うこと。行じていくうちに、いわば、仕事が仕事を教えてくれるように、信心がまた次の信心を教えてくれるという生き方ならばです。ここに証が伴わないはずがないです。
「馬鹿とアホウで道を開く」と言った様な事でもです。その事に徹底してまいりますなら、おかげを頂くということ。もう他のいろんな事は覚えんでもいい。これ一丁覚えてさえいきゃあおかげが受けられると言う様な事を幾つか頂きましたね。
とにかく、蚊取り線香になることだと。それにもちろん火がついておらなければならない。蚊取り線香に火がつく、段々段々短くなっていくんです。火がついておれば、釘付けではないんです。変わっていくんです。そして一つの蚊取り線香が済んだら、もうそれでないのですから、又次の蚊取り線香をつけんにゃいけんのです。
そして、又火をつけなければいけん。又段々段々縮んでいくでしょう。少なくなっていくでしょう。釘付けではないと言うことは、そういう事だと思う。だからいうなら「馬鹿とアホウで道を開け」と教えられる神意が段々広く深く分かってくる。これ一つ徹底して頂いていったらです。
信心の奧処にも進んでいけれるし、お徳も受けられるしおかげも受けられる。しかも一様ではない。いつも絶えず大きく広く信心もなって行くならおかげの方も広がっていく道理である。
自分が馬鹿とアホウに成っておるつもり、つもりではいかんです。だからそのつもりであると言うところには、おかげの方もそれ以上には進まないです。むしろ低下して行くでしょう。
信心がどうも足踏み状態だという時には、もう低下しよる時です。信心はもう日に日に更にです。いわば進んでいく、言うならば稽古をさせて頂いておると、今までの稽古では分かり得なかった所が分かっていく。
だからね。その一つ覚えでも、だからいいのです。けどその一つ覚えが、段々深められ高められていかなければ、いけないということです。それにはね。必ずしるしがある。いわゆる証である。
合楽の場合でも、やはり、この成り行きを大切にする。ということだけに取り組んで参りましたものね。初めの間はただ修行のつもりの、成り行きを大切にすることであった。知らなかった。私自身が、どんな事が起きようが、どういう様なものが私の目の前に現れようが、それを合掌して受けて行こうと決めた。そして私は、それを修行と思うた。
だから、それを段々段々です。いうならば四年半、その信心を続けて行きよるうちにです。これが真の信心だという風に感じる様になった。分かってきた訳です。いうなら深められてきた訳です。ただ修行と思うておったその事が、素晴らしい、勿論修行であり、真の信心に入っていく為には、もうこれ以外にはないとさえ思う位に、私は、成り行きを大切にするということに感じだしたんです。
段々それを進めていきよったらです。だからこれはどうでも起きてくる事の総てにです。これは、神様の御働きそのものなんだから「御」の字をつけなければいけないという風に又変わり、又一段と尊いものとして頂ける様に成って来た。
「御事柄」ね。だからそれが分かっていけばいく程です。私の周辺に現れてくるおかげの証というものが、はっきり打ち立てられて来るように成った。だからはーこれは間違っていないなという風に感じる様になつた。ね。
五と五を足せば十になる。さーはたして合っておるかどうか、為にはまず十から五を引いてみなければいけない。あーこれは間違いないというようにね。適格に間違いのない段階を追うての信心を進めるといういき方こそが私は、釘付けではない、生き方であると同時に、これなら信心が長う続かないはずが絶対ありません。
続けなきゃ馬鹿らしか、高めていかなけりゃ馬鹿らしか、広めていかなけれりゃ本当に馬鹿らしい。ね。私共の願いというものは、限りないおかげをやっぱり願うのですから、限りないそのおかげをやはり広く大きく頂いていかなければなりません。
長う続かなければならん。いくらお願いしてもお参りしてもおかげがうけられない。そこに、倦怠が起こってくる。飽いてくる。そして信心が段々いうなら下細りになつてくる。そして何時の間に消えたか分からん様にして信心がなくなっていく。それではならんのです。長う続くためにです。同時にここの所が又むつかしい訳ですね。「信心をめいめいにしておらねばならん」というところ。
これは大変深い意味がいろいろあると思うんですね。「信心はめいめいにしておらねばならない」家庭の中でも大学に行っておる人もありゃ高校に行っておる人もある。中学、小学まだ幼稚園という人もあるのです。
ですから例えば、大学に行っておるのが幼稚園の姿をみてです。そんな事でどうするかと言ったって、できようはずがありません。だから幼稚園は幼稚園なりににでなからなければならんという訳です。かと言うてなら幼稚園が何年経ったっちゃ幼稚園であってはもう、それは釘付けだからいけないというのです。幼稚園を過ぎたら小学校、小学校を過ぎたら中学校へ登っていかなければ、貴方の信心は釘付けです。「もう先生私は、信心は何十年ってしよりますばってんが、もう信心はいつも幼稚園でございます」と言う人は本当に幼稚園です。
それではね。おかげも幼稚な事でしかないのです。自分で言うとるから間違いないです。何時まででも私は幼稚、おかげもだから幼稚なおかげしか頂けていない。本当に日々信心の稽古をさせて頂いておればです。それこそ一年一年有り難うなってまいりましてというような、お礼の申し上げれる信心にならなければいかんです、ね。「信心をしておれば一年一年有り難うなってくる」と仰せられるのに有り難くも何もない。万年幼稚園では神様はもちろん喜びなさらん。
自分自身もつまらん。めいめいにしておかなくてはならん事は大事、例えば、同じ信者友達でもそうでしょう。だからもうそこん所が卒業、そこんところが分かったという時には、もう次の信心が目指されなければいけません。その為にはです、やはり今頃では幼稚園に入るでも、ちょっとした試験があるといわれる位ですからね。小学、中学、高校といやあ尚更のこと入学試験があるなら、今度はまた卒業試験があるでしょう。だからいつまでたつてもです。堂々巡り、また失敗した。又落ちましたではいけんです、ね。
信心に実が入ってくれば入ってくる程、そこんところに信心の試験が、いうならおためしが必ずあるです。そこんところを一つ一つパスしていくところにね。次の又信心、また次の信心に高められるとです。高められれば高められたでです。おかげが高められた高度なおかげを感じる、ね。だからこそ信心は止めようというても止められんのです。
長う続かないはずがないのです。神様のそうしたいうならば、おかげの証しというものがもうはっきりしているです。信心が皆さん本当に皆さん、堂々巡りばっかりせずにですね。だから何時も同じ様なお届けばっかり、お願い事ばっかりといったような事ではいけんのです、ね。
そりゃんなら、私の信心を見て下さるのが一番いいです。例えば、合楽示現活動に参画させてもらうといった様な信心に飛躍した。こりゃまぁ今の合楽の最高の信心ですよね。私、自身が極楽に行っておるという程しのおかげなのですから。
本当にお道の信心によって、このような有り難いおかげを受けて、しかも一家中でね。貧乏のない、争いのない、病気のない程しの世界に住まわせて頂いておるということに改めて気付かしてもらって、あぁーこれが極楽というものであろう。これもお道の信心によることだとしてです。ならその極楽のおかげを、また皆さんにも頂いてもらいたい。
難儀をしておる人達に、それこそ今あそこは地獄だろうと思われる様な人達の上に、これを伝えていくところの働き、そこには、そういう働きにです。神様がお喜び下さる証拠に神仏が不思議な働きを示し現すという働きに成ってくる。
その働きに便乗させて頂くように示現活動に参画させて頂く、その働きを現していくということに、これからの合楽はあるんだ。というた途端にお参りが多くなったでしょうが。信心が進んだからです。証なんです。親先生はあげん言いなさるけれども、実際は神仏が不思議な働きを示し現すと言われるけれども、一つも現れんじゃないかというのじゃなくて、成るほど、最近のこの合楽示現活動が叫ばれる様になつてこの方というものは、毎日いうならば奇跡の連続です。
昨日も秋永嘉郎さんと夫婦で二度目のお参りの方でしたけれども、この人はもうそれこそ大変な何ていうですかねあの大変質の悪い。例えば、三年前にね、ここにガンの様なものが出来た。ガンではなかろうかというて検査したけれども、その時はわからなかった。方一方の手術だけで終わった。
けれどもこれがもし三年後にでたら本当な、あー肉腫ですかだと言われたのです。ところが三年後にでてきた。ね。それをまーお願いに見えた。同時に御主人の何か銀行関係かなんかに勤めておられて、もうどうにもこうにも出来ないといった問題がおこっておった。その二つのお願いであった。その二つのお願いがそれこそ見事に、自分のはガンではなかつたげなというおかげであり、方一方の御主人のは、もうただ信心のない御主人ももうこりゃ神様のおかげと言わんにゃおられないという程しに、新たな展開が起こる程しのおかげを受けた。
それで御礼に出らんにゃ御礼に出らんにゃ又は主人の方も、そげな所なら俺も是非一辺お参りしたいと言いながら、もう一ケ月にもなりましょうか。ところで、昨日イク子さんから電話がかかってきた。
先日、おかげを頂いたあの人がお礼にも行かにゃならんばってん又、お願いせんにゃならん事がおこったとこういう。娘さんが、足が痛い痛いと言いよったら、足が動かんことなった。小学校のまーなんでしょうか、中学校位でしょうか、私電話を受けながらです。その事を電話でお願いをしてくれとこういう訳なんです。
それでね。こんどはあんたが、その人を連れてこんならできん。と私が言うた。それでも足が動かん。そんなら足が動かんちゅうなら、医者にならどげんかして連れていくじゃろうもん。医者に連れて行くつもりでここへ連れて来なさい。
そしたら夕方風呂へ入っとったらやって来ました。応接室で待っとるというから、会いましたら子供連れで嘉郎さん達が夫婦で若先生が相手しよった。私は、最近それこそ久し振りで少し厳しく言うた。「もう先日から大変なおかげ頂いて有り難うございました」というて一番に言われるから「本なことに有り難く思うとるですか」と私が申しました。
「いやーもう本当に神様のおかげと言わにゃおられないおかげでございます」とこう言うから「ほんとに有り難いと思うたらなぜお礼に出てこないか」と私が言うた。暗夜に光を頂く、暗い所に、夜道に提灯の一つでも借らせて頂いたら、明くる日は「おかげで暗い思いせんで済んだ」と言うてそれこそ野菜の一本も添えてお返しに行くぞと、私は言うた。ほんとに、おかげと思うておるなら、なぜお礼に出て来ないか。
私は、今日お電話でイク子さんからかかつた時に、もう今度はね。そういう事じゃいかん、なぜかというと「この方の道は病気治しやら、災難よけの神様じゃないんだ、心直しの神様」なんだ。いうなら人間が真実に幸せになっていくための信心なんだ。
それには人間が幸せになっていく人間の道があるんだ。「人間は万物の霊長」と言われるが「万物を見て道理にあう信心をせよ」といわれるがです。それこそ提灯一つ借ったっちゃお礼に行かなきゃならん。返しに行かなきゃならんじゃろうが。それをまして、あなたは命を、それこそあなたはガンじゃなかったち言いよるけれども、実際はガンであったけれども、お祭り替えを頂いておかげを頂いておるとしか私は思われん。
現代の医学の上で、これが三年後に出たら必ずガンと言われとったじゃないか。それがおかげでよかった。ガンじゃなかっただけ主人の問題だって、もうそりゃあの時、聞かせて頂いた話だったらもうのっぴきならん。どうこう出来ん程しの問題であった。
それこそ天地がひっくり返る様に、お繰り合わせ頂いとったじゃろうが。それを本当におかげと思うなら、とにかく人の車どん乗らんで、自分の車で自分で、おやじと二人でなぜお礼に出てこないか。そうしてから娘の事を願うなら、願わにゃできん。と言うて昨日は嘉郎さんにも、勝彦にも、若先生にも聞いて頂くつもりで、私は申しました。
あんたが、そこが分かりゃ娘さんの足の方は、私に任せときなさい。というてね。帰しましたがです。釘付けであってはならないと思うから言うのです。
こりゃ、私、最近奇跡ということはね。信心ができるから、出来ないからじゃないです。このごろもう日田で、もう死ななきゃならんはずの子供が、おかげを頂いて、ところがですね。このごろ日田の共励会の時に、それこそおかげを頂いておりながら、何か医者がよい処置をしてくれたから助かった。という意味のことを言うて、おかげ、て言わんげなもん。他の者がえらいはがゆがってから、こうおかげ頂いておるという事実を話して聞かせるけれども、全然耳をかさなかったという様にですね。
だから奇跡というのは、お互い信心させて頂いておる者がです。神様の働きをあー成るほどと、だから奇跡というものは、本当の信心が段々出来ていきよる者の上には、まー私おこらんと思うです。
いうなら真実のおかげです。今日私が言うように信心が一段と進んだら、進んだからそれの証の様におかげをくださる。という行き方じゃなければ真実のおかげじゃないという風に思うです。だからそれこそ奇跡でも見せなければ、神様を信じようとしないから、それこそ合楽示現活動に参画してもらいたい。神様の願いが分かってもらいたい。
本当の信心生活をしてもらいたい。人間の本当の幸福の道を歩いて貰いたいという為に、神様が、ね。見せて下さるのが奇跡だという風に思うですね。いうならそういう意味での奇跡は、数限りないことですけれどもです。最近ね。そういう例えば、おかげから次に、私は、昨日福岡の方達に申しました様にです。本当に先生が言われる通りだとお礼の道というか、次の信心を分からせて頂く、また分からせる必要がある。
私が、ここでこうやって毎朝、皆さんに聞いて頂いておるのはです。もう信心は一時でもじっとしてはおられんぞという事を聞いて頂いておるのです。そしてなら、馬鹿の一つ覚えのように本気で「成り行きを大事にする」とか「すべての事柄を御事柄として受けていく」という事に徹底するならば、そこからです、新たな信心が生まれてくるということ。だからその新たな信心から必ず新たなおかげの証が見えてくるのです。
合楽示現は、まーだようやく二、三ケ月しかならんのですけれども、三百余りしか売れていなかった「おかげの泉」がです、八百からも売れるようになったというのですから、もう大変な事でしょうが。
そういう事実がね、いうならしるしである。信心を進めていきよる証である。「めいめいにしておらねば」という事も分かられたでしょう。釘付けではいけないという事も分かられたでしょう「信心は長う続かねばならん」という事も成るほどこういう生き方でいくなら、長う続かないはずはないということを、今日は聞いて頂いたんですね。どうぞ。